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門から遠く離れて

僕が初めて読んだ仏教の本は、アルボムッレ・スマナサーラさんの「 怒らない練習 」です。 だから怒りについて考えることから、僕は仏陀の世界に入りました。 でもその前に、どのように考えていたかを振り返っておきます。それと対比させて、今を見てみたいからです。(このように、僕のつぶやきを一つの資料として、使うことは今後もよくあると思います)。 「私らしさ」とかはたいてい、プライドと怒りの源泉にしかなってない。幸せにも自由にも、ほぼ関係してない。 — じのん (@jinon) July 21, 2015 疲れにフォーカスしないようにするだけで、疲れが発生しないんじゃないかっていう、変な思いが最近ある。怒りにフォーカスしないと、怒りは消えていくから。 — じのん (@jinon) July 24, 2015 怒っていいということもない。瞬間的に怒りの花が咲くのは仕方ない。が、花は咲いたらすぐに枯らせ。どの感情も、すべて、すぐに枯らせ。 — じのん (@jinon) July 26, 2015 心、嘘と正義と怒りに汚されやすい。 — じのん (@jinon) August 6, 2015 心の中が、不安と怒りと羨望と妬みと苦しみとで埋まっているのは、確かにそれだけで不幸であるな。俺もそんなもんだ。そういうもんと、どう付き合うか、明日にそれを、どう持ち越さずに生きていけるか。 — じのん (@jinon) August 24, 2015 怒りにかられるのは、本当にムダだ。傷つくのもバカバカしい。 — じのん (@jinon) September 3, 2015 「怒らせるなよ」 これ、あまり良くない思考だよね、怒ってるなんつうのは大体自分が悪いのに、そこを他人のせいにしてる。 DVまで地続きになるよ、怒りを他人のせいにすると。 — じのん (@jinon) September 23, 2015 配偶者や恋人が、いつもいつも、 「怒らせるお前が悪いんだ」 と言ってたらあれです、DVの可能性があるので、気をつけましょう。 怒りにわれを忘れるその人が、自分の怒りを許してしまうその人が、基本的には悪いです。 — じのん (@jinon) September 23

サマタ瞑想の分類・禅定に達するか・どのような智慧を得られるか

備忘録として。 ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第7巻〉瞑想と悟りの分析1 から http://www.amazon.co.jp/dp/4905425077   サマタ瞑想は40種 あって、種類でも分けられるし、 禅定 に達するものと達しないものとしても分けられる。達しないものは、智慧が得られるとのこと。 僕としては禅定を求めているわけではないから、智慧が延びるのがよいと思うので、それらをピックアップしておきたい。 不浄遍 第1禅定まで 欲の人間にあっている。 施捨隨念 禅定に達する(第一?) 煩悩からの解放 「これは私にとっては得です。確かに大得です。衆生の心が「物惜しみ・ケチ」という汚れに抑えられているのに、私は物惜しみ・ケチの汚れに染まらないで、在家生活をしている。私の心は施捨に開かれている。施しの手を差し伸べている。譲るのが好きです。頼りにされる性格です。与えて分け合うことを喜びとします」 死隨念 禅定に達しない 死を念じる。自分の死を念じて確認する。だが自分の死は経験できないから、他人の死を見て、「自分も必ず同じ運命になるのだ」と念じる。 「私は必ず死ぬのだ」 「誰でも死ぬのだ」 「一切の衆生は死ぬのだ、 生きることの終点は死である」 「死という現象と出会うために、私もこの世にあるのだ」 欲・怒り・エゴ・嫉妬・無知などの感情が機能しない状態になることが狙い 執着を薄く 身起念 禅定に達しない 身体の様々な部品を瞑想する。髪の毛やつめ、など。心臓や筋肉、皮膚、歯、など32ほどのものを。 欲の煩悩を制御する(性欲?)。肉体に対する執着、未練、期待を捨てる。 四無量瞑想(慈悲喜捨) 禅定に達する。(細かく言うと、段階が、慈悲喜捨のそれぞれで違う) 罪を犯さない生き方になる。 自我の錯覚が破れる。 これはすでにやっている。慈悲の瞑想ということでアルボムッレさんのいろんな本に載っているが、 喜捨も入っているようだから。自我の錯覚についても若干感じるところがある。嫌いな人について、出てこなくなったりする(状況が変わると出てきたりする)。 食厭想 食べるものに対しての想いを意図的に変える訓練   適量を必ず食べる。しかし、それは執着に値しない、厭うべき

このブログは何が書かれていくのか

このブログでは、ブログ主のじのんがツイッター  https://twitter.com/jinon  でつぶやいていることをもとに、「私たちの重力」にまつわることを書きます。 でも、私たちの重力とはなんなのか、僕もまだはっきりと言葉にできていません。 それがはっきりとして行くのがこのブログの流れかもしれません。 ただたぶん、この言葉にはスピリチュアルな意味合いはないし、物理的な力の話でもないでしょう。 今までも自意識の檻、私という重力といった言葉でモノを考えることが多かったのですが、今年に入って別の見方が加わり、さらによりはっきりと重力のようなものを感じるようになっています。 加わったものとは仏教です。今、僕は上座部仏教といわれる原始仏教の智慧と実践に、今年初めからどっぷりとつかっています。 これまで精神分析を勉強し、小説を書き、会社を経営してきましたが、そこに仏教が現れ、また別の角度が現れました。 その角度、光、照明の中で、私たちの重力について、書いてみます。