門から遠く離れて
僕が初めて読んだ仏教の本は、アルボムッレ・スマナサーラさんの「怒らない練習」です。
だから怒りについて考えることから、僕は仏陀の世界に入りました。
でもその前に、どのように考えていたかを振り返っておきます。それと対比させて、今を見てみたいからです。(このように、僕のつぶやきを一つの資料として、使うことは今後もよくあると思います)。
半年くらいのtweetからピックアップしたものです。意外と今の考え方に近く、そもそもテーラワーダ(上座部仏教)的な世界と親和性のある考え方をしていたのだなと思います。
でも重要なのは、そのような考え方を持ち、方法への示唆も視野に入っていたのに、怒りをまったくコントロールできていなかったことです。
僕という人間は長い間、生まれてからずっとですね、怒りや欲といった感情全般について out of control でした。二十歳を過ぎ、小説を書くようになってからはそれを意識的にも許しました。そもそも制御できなかったのに、さらに許可を与えて生きてきた。抑圧するのは良くないのだと、不自由であるのだと、感性を殺すのだと。
結果として、これまでの生は荒馬に翻弄されたものになりました。自由であると思いなしながら、激しく揺さぶられ、いろんなところにぶち当たってけがをしながら生きてきました。
でも、「止まってくれ」と思っても、そんなのは荒馬に通じません。「消したい」「コントロールしたい」といった意思は、ただの一度も効力を持ちませんでした。
自制心の強い人は別でしょうが、僕の感情は燃え上がることはできても、自在に冷ますことはなかなかできないのです。そうして暴発が起きる。選んだわけでもなく、止めることもできない。
もちろんエネルギーではあるでしょう。それは確かです。否応なしに衝き動かすエネルギーです。ただ意味のないものでもあります。だって目的に使うとかはできないんですから。制御できなければ、使えないのと一緒です。暴発を繰り返し、人を勝手に動かすだけのものです。突然火山が噴火するように、地震が起きるように、災害ばかりが発生します。
僕にとってこの在り方は苦しかった。その苦しさは、消えなかった。
ここからわかるのは、「どのような思想を持っているか」は、少なくとも僕には、現実的な力を持ちえなかったということです。意外と悪くない思考をしていたとは思います。ですがそれは、無力だったのです。
思想や思考は何も変えてくれなかった。なにがしかの、実践が必要だったのだと、今は思います。
で、仏教には実践があった。その実践は、やり始めた途端に、強烈な影響を及ぼしました。
ので、次は、その実践について書きましょう。多分。
(精神分析にもあったのだけれど。それについてはのちに書きます)。
でもその前に、どのように考えていたかを振り返っておきます。それと対比させて、今を見てみたいからです。(このように、僕のつぶやきを一つの資料として、使うことは今後もよくあると思います)。
「私らしさ」とかはたいてい、プライドと怒りの源泉にしかなってない。幸せにも自由にも、ほぼ関係してない。— じのん (@jinon) July 21, 2015
疲れにフォーカスしないようにするだけで、疲れが発生しないんじゃないかっていう、変な思いが最近ある。怒りにフォーカスしないと、怒りは消えていくから。— じのん (@jinon) July 24, 2015
怒っていいということもない。瞬間的に怒りの花が咲くのは仕方ない。が、花は咲いたらすぐに枯らせ。どの感情も、すべて、すぐに枯らせ。— じのん (@jinon) July 26, 2015
心、嘘と正義と怒りに汚されやすい。— じのん (@jinon) August 6, 2015
心の中が、不安と怒りと羨望と妬みと苦しみとで埋まっているのは、確かにそれだけで不幸であるな。俺もそんなもんだ。そういうもんと、どう付き合うか、明日にそれを、どう持ち越さずに生きていけるか。— じのん (@jinon) August 24, 2015
怒りにかられるのは、本当にムダだ。傷つくのもバカバカしい。— じのん (@jinon) September 3, 2015
「怒らせるなよ」— じのん (@jinon) September 23, 2015
これ、あまり良くない思考だよね、怒ってるなんつうのは大体自分が悪いのに、そこを他人のせいにしてる。
DVまで地続きになるよ、怒りを他人のせいにすると。
配偶者や恋人が、いつもいつも、— じのん (@jinon) September 23, 2015
「怒らせるお前が悪いんだ」
と言ってたらあれです、DVの可能性があるので、気をつけましょう。
怒りにわれを忘れるその人が、自分の怒りを許してしまうその人が、基本的には悪いです。
怒りにまみれてるのは弱い証拠だし、愛が足らない証拠。— じのん (@jinon) September 23, 2015
自分の怒りを許容しないの、大切だな、否定するのではなくて、なぜ怒りを感じているか、理解する力、自分自身への愛みたいなもの。— じのん (@jinon) September 23, 2015
だいたい、脅かされていると感じているものだよね、怒ってるひとは。根本的に、弱いところがある。
そこを自分でちゃんと見つめないとならない。
この一連のは、俺自身への反省。怒りをひとのせいにするときがままある。手は出したことないけれど、一歩行きすぎたら、なりかねないと思ってる。自分はとても弱い。— じのん (@jinon) September 23, 2015
半年くらいのtweetからピックアップしたものです。意外と今の考え方に近く、そもそもテーラワーダ(上座部仏教)的な世界と親和性のある考え方をしていたのだなと思います。
でも重要なのは、そのような考え方を持ち、方法への示唆も視野に入っていたのに、怒りをまったくコントロールできていなかったことです。
僕という人間は長い間、生まれてからずっとですね、怒りや欲といった感情全般について out of control でした。二十歳を過ぎ、小説を書くようになってからはそれを意識的にも許しました。そもそも制御できなかったのに、さらに許可を与えて生きてきた。抑圧するのは良くないのだと、不自由であるのだと、感性を殺すのだと。
結果として、これまでの生は荒馬に翻弄されたものになりました。自由であると思いなしながら、激しく揺さぶられ、いろんなところにぶち当たってけがをしながら生きてきました。
でも、「止まってくれ」と思っても、そんなのは荒馬に通じません。「消したい」「コントロールしたい」といった意思は、ただの一度も効力を持ちませんでした。
自制心の強い人は別でしょうが、僕の感情は燃え上がることはできても、自在に冷ますことはなかなかできないのです。そうして暴発が起きる。選んだわけでもなく、止めることもできない。
もちろんエネルギーではあるでしょう。それは確かです。否応なしに衝き動かすエネルギーです。ただ意味のないものでもあります。だって目的に使うとかはできないんですから。制御できなければ、使えないのと一緒です。暴発を繰り返し、人を勝手に動かすだけのものです。突然火山が噴火するように、地震が起きるように、災害ばかりが発生します。
僕にとってこの在り方は苦しかった。その苦しさは、消えなかった。
ここからわかるのは、「どのような思想を持っているか」は、少なくとも僕には、現実的な力を持ちえなかったということです。意外と悪くない思考をしていたとは思います。ですがそれは、無力だったのです。
思想や思考は何も変えてくれなかった。なにがしかの、実践が必要だったのだと、今は思います。
で、仏教には実践があった。その実践は、やり始めた途端に、強烈な影響を及ぼしました。
ので、次は、その実践について書きましょう。多分。
(精神分析にもあったのだけれど。それについてはのちに書きます)。
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