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慈悲の瞑想 ステップ・バイ・ステップ 直感に従ってやってみること

こんにちは。 先日、瞑想仲間と話していたところ、慈悲の瞑想についての話になり、私が2ヶ月くらい前に考えついて、でも書くのも面倒だなと思って書かないでいたアイディアを伝えたら、書けと言われましたので、書いてみます。 これまで何個か、慈悲の瞑想について、ブログ記事を書きました。 たとえば、 慈悲の瞑想 http://juryoku.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html 慈悲の瞑想について ヒントになることのそのリンク集 http://juryoku.blogspot.jp/2016/09/blog-post_4.html 慈悲の瞑想についての一考察: 慈悲、欺瞞、偽善、行動という視点から http://juryoku.blogspot.jp/2017/08/blog-post_12.html など。 さて、三番目の記事で書いたように、慈悲の瞑想は嫌いな人にはとても嫌われる実践ですが、やるかやらないかはすべて個々人の選択であり、やらないことを責めるつもりは全くありません。やらないと駄目と言うつもりもないです。ただ、「 やれば楽になることはある 」と言えると思ってます。また、マインドフルネス、ヴィパッサナー瞑想の準備体操みたいになるので、もしそれらをやってみたいなら、一つのトレーニングとしておすすめできるとも思います。 なのでこの記事は、「ちょっと抵抗感強いんだけど、心にいいならやってみてもいいかなあ」位に思っている人から、どうにかして心を落ち着かせたいんだけど、抵抗強いんだ、辛いんだ、という人、あるいはヴィパッサナー瞑想を進めていくためのトレーニング、そして慈悲の瞑想の仕方を、感情的な嵐の中にいて苦しんでいる人に伝えるための一工夫といったような目的意識で書いてます。 なお日本テーラワーダ仏教協会の慈悲の瞑想をもとにしたステップバイステップだけど、グナラタナ長老バージョンでも同じようにしていくことはできると思います。また、あくまでも私案であり、誰かに対して実践してみたものでもありませんし、日本テーラワーダ仏教協会とも関係ありません。そのため、一切の責は私にあるということでお読みください。 慈悲の瞑想 直感に従うステップ・バイ・ステップ  1. 基礎部分 さて、慈悲の瞑想は「5つの対象」に

仏道初めて一年九ヶ月

一度も風邪で寝込んでいない。 体調を崩すこともない。 仏道、本当に健康に良いですね。 慈悲の念、智慧に基づいて、 お布施(困ってる人、生命に自分のもの、時間、労力を無償で分け与える)すること、 戒律に則って生活してみること、 悪行為をしないこと、 瞑想すること、 これらの結果として、自らの心の在り方、「私」というものをみてみること 「私」というものから自由になること という道のりなんだが、これによってストレスからの自己破壊がなくなり、免疫力が格段に上がったんだろうなあ。毎日、少しずつ溜まってしまう心のゴミ出しをしてる側面もあるし。ゴミが発生しなくなったら悟り。無常・苦・無我を体験すること、真に因果関係を認識すること、などなどによって、そこまで行かないとね。 こちらも同じようなこと書いてる。 http://juryoku.blogspot.jp/2017/05/blog-post.html 仏道は本当に、心身の健康に良いです。 初期仏教 イズ ヘルシーです。

「私の思考」というシムシティ、エイジオブエンパイア、マトリックス

こんにちはこんにちは。皆さんいかがお過ごしですか。 前回、こんな記事を書きました。 欲と必要性、仏道とシューティングゲーム 上の記事では瞑想をゲームに例えて書きましたが、ふと思いついたものがあったので、今回は「私の思考」をシムシティやエイジオブエンパイアに例えて書きます。具体的には、私らしさ、私の意見、主張、考えをゲームの中で行う「アイテム・呪文」などを使う行為・アクションとしてみなしてみます。 この記事の前提みたいな考え方 まずその前に、 「「私」というものがある種の概念体系であることは論を俟たない」 とは言えなくて、大抵の人が「?」となる意見かと思います。 私の考え、思考、これらが私自身である。我思う故に我ありであるから、我の思いが我自身である。 基本的に人は、「 私の感情や私の思考の内容が私である 」という前提を持っていると思います。 仏教はそこが全然違ってて、んなもんは癖みたいなものだ、と言います。僕は癖であり、ゲームのようだと思うようになりました。そういう前提がこの文章にはあります。 「私の思考」というゲーム これはどんなゲームかというと、 ほしいと思ったものを手に入れようと考えたり、好ましいと思う意見を自分に組み込んだり、 あるいは、 好ましくない主張や好ましくない人を、攻撃する様々な意見を組み立てたり するゲームです。 僕たちの心ではこのような概念・意味・論理をアイテムとして使う「思考」が常に繰り広げられています。これらの基礎には感情エネルギーがあり、それを基に「思考」アイテムが作られるのですが、アイテムを作るとさらにその結果として感情エネルギーが支払われます。シムシティで工場を作ったり商業施設を作ったりするのと似てますね。エイジオブエンパイアで町の人を作って街を作るのとも似てます。 攻撃呪文「私は拒絶する」または「あっちいけー!」 自分に苦しみを与える意見、言葉、感情を受け取ると、我々はそれらを攻撃し、拒絶しするアイテムを作ります。心の中には敵の価値を貶め、否定する言葉、感情、考え方が生まれ、実際の行動にも影響します。つまり拒絶のためのアイテムであり、呪文です。あるタイプの人は、それを唱えて日々を過ごします。エイジオブエンパイアで攻撃ユニットを作るのに似てます。歩兵、騎兵、戦車、ミサイルですね

欲と必要性、仏道とシューティングゲーム

これは極めて個人的な感覚であることを断っておく。 また、私は、数日間ゲームに没頭してしまうくらいに、中毒のようになってしまうタイプの人間であることも断っておく。若い頃は、20時間近く連続でゲームすることもザラだった。依存症者のようなものだ。 ゲームという消費 3日前に、久しぶりにゲームをやって時間を潰した。スマホの単純なパズルゲームだ。 結果、いつもと同じように、極めて激しい虚しさに襲われる。 やっているときはそうでもない、楽しんでいる。快楽のひとときだ。だが終わったあとのあの誰にとってもなんの訳にも立たなかった、ただ費消された時間への、すごい後悔と言うか虚無感はなんだろう。苦しくて仕方なくなる。充実感ゼロの時間。ただ消えた時間。 で、ふと思ったが、ゲームに限らず、欲望で行った行為は、いつもそうなる気がする。たくさん食べるのも、遊ぶのも、「したい」「やりたい」という感情から出た行為は、何故かいつでも、虚しいという結果に行き着く。 *この感覚が、もしかしたら僕を、依存し続けることから救ってくれていたのかもしれない。 逆に、必要のため、なすべきことのための行為をしたあと、虚しさというのは現れない。 やっているときはつらくても、成し遂げたあとに充実感が生まれる。やってよかったという感覚が生まれる。 常に、そうなのだろう。 「したい、ほしい、やりたい」そういう感情を元に、そういう衝動を元に行為したあと、多分、僕はいつでも、苦しむ。結果が常に辛くなる。その時間は二度と取り戻せないし、何よりその時間で得たこと、役に立ったことがゼロなのだ。ゲームがうまくなっても、何も変わらない。現実はゲームほど単純なことはほとんどなく、得た知や技能は、適用できない。 *シミュレーションゲームはちょっと面白みはあるかな。富国強兵策の基本を取ればだいたい負けないとかは中学の頃に学んだ。 だからこそ、常に、「したいこと、ほしいもの」なのか「なすべきこと、必要なもの」なのかを、判別して生きていかねばと思った。 常に、なすべきこと、必要なことだけをこなしていければ、日々は充実感に溢れ、幸せにあふれるだろう。 それにまた、欲望と対立した必要性という軸の事柄は、それほど多くない。つまり、雑事が少なくなる。無為の時間が現れる。瞑想、実践に費やすことがで

「人付き合いの処方箋」からメモ

人づきあいの処方箋―アルボムッレ・スマナサーラ法話集 から。 人から好かれる4つの性格 1 布施  「できることで助けてあげよう」 与える、あげるということ。お金、知識、労力、時間。他人のために自分が持っているものを分け与えること。 2 愛語  「優しい言葉」 美しい言葉、相手が喜ぶ言葉、好ましい言葉。 慈しみを持って考え、相手を否定せず、非難しないように、言いたいことを伝える。 3 利行  「人から必要とされる人になる」 役に立つ、意義がある行動、生き方。 人のためになる生き方、人の役に立つ生き方。 必要なこと、意味のあることをなす。 無駄な行為をやめる。 家族、親戚、友人、会社、 などの役に立って生きる。 4 同事  「人気者は威張らない」 平等。 どんな人も、どんな生命も平等、同じ。 親分ではなく、仲間。友達。 争いの種 六種の性格 1 怒りっぽく、執念深い 「 一生恨んで忘れません。」 怒りを保ち続けることが問題を作る。 人は怒ったら、役に立たない人間になってしまう。 2 他をけなす、自己主張が強い  「他人のことを認めない性格」、「自分を大きく見せようとすること」 他をけなす すぐにケチをつける、他人の顔に泥を塗る 自己主張が強い 他人の気持ちにお構いなく、自分の感情で相手を押さえつける。 3 嫉妬、物惜しみ  「私の世界は立入禁止」 嫉妬 他人の幸せを嫉妬する癖がつくと、誰とも仲良くすることはできなくなります。 物惜しみ 自分にあるものを守ることばかり考えること。 近寄るな、触るな、取るな、見るな、という言葉ばかりだと、人間関係は成り立たない。 4 へつらい、詐欺  「詐欺も才能だと自慢する」 へつらい 自分の利益しか考えないこと。 他人をうまくおだてて自分に必要なものを持って帰る 詐欺 利益だまし取ろうとする。 5 悪意、邪見  「悪知恵の達人」 悪意 悪いことばかり考える人。脱税、密輸、社会を維持するための方や決まりを破るための抜け穴を探す。危険な存在。 邪見 考え方がどう見ても変な人。社会の調和、平和を守る道徳や倫理に、真っ向から反対し、自分の意見にしがみつく。混乱、

慈悲の瞑想についての一考察: 慈悲、欺瞞、偽善、行動という視点から

慈悲の瞑想を巡って発生する様々な現象について、私なりにまとめてみたい。 慈悲の瞑想の文言については こちら 、実践を巡っては こちら をご参照ください。 0. 慈悲の瞑想とは、その構造は 私が実践している慈悲の瞑想は、スマナサーラ長老がまとめたものである。それを構造的に考えると、対象は、 私 私の親しい生命 生きとし生けるもの 私の嫌いな生命 私を嫌っている生命 の五種であり、この五種にそれぞれ四種の文言を念じ、感情・見解を作り出す。4種の文言は、 幸せでありますように 悩み苦しみがなくなりますように 願い事が叶えられますように 覚りの光が現れますように である。だから細かく言えば20種の瞑想になる。 * フルバージョン はまた違うのだが。こちらはより仏教的な見解に向けた調整という側面が強いと言える。 1. 慈悲の瞑想に対する反発・反応のまとめ この慈悲の瞑想だが、「 やったことがない人が読んでも抵抗感を覚える 」というのが特徴であり、人に紹介すると発生しやすいパターンが3つある。 1-a. 慈悲の瞑想は欺瞞ではないか そのうちの一つが「 欺瞞なのではないか? 」というもの。 欺瞞とは欺くこと、騙すこと 。この文脈で言えば、 自分自身の気持ちへの嘘であり、自己の真実の抑圧、騙し となる。 この気持ちは 実は極めて自然 だ。「私」に関する4種以外はそれほど自然に発生するものでもないからだ。寛大な人は「私の親しい生命」への4種も持ち合わせているかもしれないが、「私」に対してすら、否定的な気持ちを持っている人も多い。 この意味で「欺瞞ではないか」と感じること自体、実は真正な感想である。自己の今の状態に対するストレートな、正直な反応と言える。 1-b. 慈悲の瞑想は偽善ではないか この反応もよくある。言葉だけで、頭の中だけで、 行動が伴わないじゃないか というものだ。「 言葉で念じて上辺を取り繕うよりは行動せよ 」という考え方でもある。 これも自然だろう。いいことを言う人間より、寄付なりボランティアなり、実際に人助けしている方が良いに決まっている。また宗教的なものの考え方、救済という考え方からしても念じるよりは行動と考えるのはごく普通だ。 1-c. 怖い、気持ち悪い、具合悪

ラベリング瞑想で難民化してしまいそうな方のためのガイドライン(私案)

ラベリング瞑想という言葉やラベリングにまつわる問題について ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について(その1)   ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について(その2)   と書いてわかったことがあるのだが、その前に「動機」を書いておこう。 1. 動機 一連のエントリーの動機は、  「ラベリング・実況中継する瞑想が合わない、あるいは瞑想難民になってしまった方々の、ラベリングについての理解、認識が私のものと異なっている」 と思われたことが挙げられる。同様にプラユキ先生がラベリングで陥る問題として挙げるものも、まさにラベリングを用いる瞑想をやっている人たちが「 やっていないこと 」と思われる。 これが事実なら、 うまく行ってる人、うまく行ってない人は実は同じラインを示している 。上手くいかない人がやっていること、うまく行ってる人がやってないこと、これらはほぼ同一の可能性がある。したがってここを明らかにすれば、ラベリング系瞑想の注意点が明らかになり、瞑想難民化を防ぐ一助になると私は考えた。 またうまく行ってない方々が語るラベリング瞑想の姿はちょっと違う感じがすることが多く、それがやり方だという理解が一般的になると、それもまた事実に合わないと思った。 以上の二点が動機となり、明らかにすべき、整理すべきことと見えた。 2. ガイドラインの明確化 あらゆる瞑想法にはガイドラインがある。 例えば座禅では、背をぐにゃぐにゃに曲げ、体を揺らしまくり、おしゃべりし、手を動かし、といったような指導は決してなされない。その逆がガイドラインだ。 プラユキ先生が手動瞑想を指導されるときは、ぐぐっと手のひらに集中して、それだけになるように、手しかなくなるように、その動く軌跡のすべてに気づくように、とは指導されない。その逆といえる。 その他、アナパナ系では、額に気を集めて、とは指導されない。寝ろとも声を出すようにともされないだろう。 このようにすべての瞑想技法にはガイドラインがある。当然スマナサーラ長老のものにもだ。そこでここでは、私が理解しているスマナサーラ長老の瞑想指導を、コンパクトにし、明確化してみる。 ※明確化には功罪があるが、それは後に。 ※

ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について(その2)

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ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について その1 の続きです。 チャルーン・サティの手動瞑想との類似点 マハシ式では歩く瞑想、手の上げ下げ瞑想など、型を定めることもできるが、はっきり言えばすべての動作、行為を瞑想化することができる。この時行うのは、動作への気づき、それに合わせてラベリングすること。それ以上でもそれ以下でもない。が、この行為、動きに気づくことの結果として、今渦巻く感情や思考から離れる。 これはプラユキ先生が指導されているチャルーン・サティの手動瞑想とほぼ同じような結果を導き出すし、そのプロセスも似ている。 https://www.youtube.com/watch?v=gcBeC6Qdg9k 異なる点は、歩く瞑想をするならば、下半身の動かしている方だけが全てになるくらい集中し、そこに生じる感覚に気づくようにというように指導をされること。つまり 集中力についての取扱が異なる 。 チャルーン・サティでは感情が浮かんだら、パッと手に戻る、その位置に戻るというように自由な浮遊があって、それでいてある特定の時空(手)にアンカリングする。その時、多分初期は、ぐっと集中させない。軽く振れるくらいの気持ちで、ふわっと気づくように、という感じだと思う。 が、マハシ式の動中禅ではそもそもその領域全体に心を係留するように、集中力によって気づきが常にその辺に漂うようにという指導になる。ただ、座るときは、お腹の膨らみ・縮をベースラインに設定するし、心がさまようことはそれほど妨げないけど。 https://twitter.com/i/moments/818739025028616192 で、私個人で言えば、そんなうまくは行かない。心は常に泳ぐし、さまよう。妄想の海を泳いでいる。 けど、明言されてないかもしれないが、くじける必要はまったくない。(色んな所で、スマナサーラ長老ははっきりいっている気がするけど…) 今失敗したならまたやればいい。 「 何万回でも繰り返せばいい 」 そういう前提がヴィパッサナー瞑想にはある。 というか、ものすごい回数失敗するのは前提。だって誰もほとんどやったことのない心の使い方だから。超難しいから。慣れてないから。それが大前提。 だから口ぶりは厳しいように見えるが(スマナサーラ長

ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について(その1)

以下は、あくまで、途上の人間が、途上の人間に浮かんだ見解を書いたものです。見解なんてくだらないものです、と予めいっておきます。 ですから、参考程度、落書き程度に思って読んでいただければ幸いです。 *かなり長くなったので分割しました。 その2 に続きますが、結構主題は変わっているので問題ないかも? --- 以前、ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想についてかいた。 ラベリング瞑想という言葉やラベリングにまつわる問題について この瞑想法は、「マハーシ・サヤドー」がまとめ上げたものなので、マハシ式、 マハーシメソッド、などと呼べるし、twitterでは言葉を短くするために(140字だから)、マ式ヴィなどと言っていることもある。 イケメン マハシ長老 のお写真 https://twitter.com/ERcUp5PO2AGVtWh/status/886993034902085632 これについて補足をしてみたく思った。 ラベルとは何か、および、ラベルを用いる瞑想は「何ではないか」 について。 ラベリング瞑想では「価値判断」をしない マハーシ式に限ったことではなく、あらゆるヴィパッサナー瞑想、座禅なども、価値判断は行わない。 瞑想中は一切の価値を手放す ものであるから。 で、マハシ式の座る瞑想では心に浮かんだことは例外なく【雑念】【妄想】のどちらかのラベルを貼る。 起きたものに対して、何であるか、どうしてであるかの判断は行わない 。一切の価値判断を捨てる。捨てる=手放すということでもあり、とにかく、離れることになる。 浮かんできたもの、起こってきたものが何であるかをいちいち判断していたらひどく遅くなるし、またその判断の過程で【思考】が割り込み、思考の強化に陥ってしまいかねない。 だから「妄想」「雑念」というラベルを貼るのは物置に放っておくという意味合いになる。 「これらが浮かぶ自分はだめなんだ」 「これらを考える自分は妄想ばかりしていてダメなんだ」 と自己否定を行うためではない。その感情を強化するためでもないし、その感情に耽溺するためでもない。 お片付けのラベル貼り 。そしてちょっと乱暴だが、心に浮かんだすべてを片付ける。オッケーという言葉は貼らないが、じゃあね!ってバイバイする。バイバイしやすいようにす

ラベリング瞑想という言葉やラベリングにまつわる問題について

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以下は、一介の在家修行者、道の途上にある人間の私見です。体系的に学んだわけでもなければ、出家と同様の戒律を守っているわけでもないので、戯言のようなものとしてお読みいただければと思います。 ラベリング瞑想とは 私がやってるスマナサーラ長老指導の瞑想は「 マハーシ式 」と呼ばれます。釈尊の瞑想を独自に体系化されたのが マハーシ・サヤドー だからです。 参照:  http://www.horakuji.hello-net.info/dhyana/sikan/samatha_vipassana.htm このマハーシ式の瞑想は ヴィパッサナー瞑想 の一種ですが、「 ラベリング瞑想 」と呼ぶ人も多いです。現象を確認するための道具として言葉を用いるからです。 瞑想の名付け方が、瞑想の本質ではない ヴィパッサナー瞑想にはこの他に、 プラユキ・ナラテボー師 指導の「 チャルーンサティ 」などもあります。日本語にすると 手動瞑想 ですね。手を動かすからです。 プラユキ・ナラテボー師 瞑想実践 その他呼吸瞑想とか、歩行瞑想とか、いろんな瞑想手法があるわけですが、すべてわかりやすい特徴で名付けしてますね。この事自体はそんなに問題はありませんし、わかりやすいことで弁別するのは当たり前といえます。 ですが、これらの場合、名前になっている特徴そのものは、ヴィパッサナー瞑想でおこなう主眼となる実践ではありません。 チャルーンサティは、手を動かしますが「手を動かすこと」が瞑想なわけではないでしょう。歩く瞑想も「歩くこと」そのものが瞑想なのではありません。同じようにラベリング瞑想も、ラベリングすること自体が瞑想ではないのです。 「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語 ヴィパッサナー瞑想ではどのようなことをするのか では何が「瞑想すること」にあたるのかといえば、その時やっていること、 起きる現象に「気づく」こと です。これがヴィパッサナー瞑想で行うたった一つの営為です。したがって、あらゆるヴィパッサナー瞑想は根が同じだと思います。 ( 座禅 もその真髄は同じだと私は思います、が、気付きについて語ることはあまりないかな? 有名な禅師の言葉は、スマナサーラ長老やプラユキ師が言っていることとほぼ同じことに思えますし、釈尊へとつながって

箭経 矢 スッタニパータ 第3章8 574-593

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勝利の経 のときと同じく、二種並べて載せます。 親族や親しい人がなくなったときの悲しみについて。また、恋人などの大切な他者と別れたりしたときのことについてのものかもしれません。 まずは 日本テーラワーダ仏教協会 の下記のバージョンから。 [新装版]ブッダの日常読誦経典[完全版 CD BOOK] アルボムッレ・スマナサーラ サンガ 2015-09-26 売り上げランキング : 275114 箭経 574. 徴もなし。予告もなし。この世の人の命というものは、 惨めなもの。儚いもの。その上、苦しみに陥っている。 575. 生まれたものが死なずにすむ、 その手立ては何もなし。 「老いて老いて、死に至る」。生きるものにはこのきまり。 576. たわわに実った果実なら、夜明けとともに落ちるやも。 生まれた人も同じこと。死の恐れ、常にあり。 577. 陶工の作る土の器が、最後は必ず壊れる。 人の命もそんなもの。 578. 子供であれ大人であれ、愚者であれ賢者であれ、 みんな死の力に征服されている。死はみなの行き着くところ。 579. 死があの世にさらっていくのに、 父でも息子を救えない。親族でも親族を救えない。 580. 泣きわめく親族の目の前で、さらわれていくのを見よ。 人は孤独で死に至る。屠場に牽かれる牛のように。 581. 老いと死が常にこの世を攻撃する。 世のこの理を知る賢者には悲しみなし。 582. どこから来た者か、またどこへ逝ったか、それをあなたは知らない。 両辺も見えないその人のために、あなたは無意味に嘆く。 583. 泣き叫ぶことで得する何かかがるならば、 それは頭の混乱、そして自己いじめ。智慧ある人ならこのように知る。 584. こころのやすらぎは泣き崩れること、嘆き悲しむことでは得られない。 苦しみだけは増すばかり。身体はますます損なわれる。 585. 身はやつれ、顔色は悪くなる。 自分で自分を傷つける。 死者の供養にもならない悲しむことは、無駄なだけ。 586. 悲しみを断ち切らない者が、なおさら苦悩に陥る。 亡き人を嘆く人は、悲しみに呑み込まれる。 587. 摂理によって死んでいく他の人々も見るがよい。 死期

仏教は健康に良いので。

仏教はじめて一年と四ヶ月が経とうとしてます。 やってることは原始仏教の実践です。八正道、布施、戒律を守ること、そして瞑想の日々。慈悲の瞑想やヴィパッサナー瞑想。最近は読経もします。普通に仏教徒ですね。お釈迦様の弟子。 で、始めた当初の体重は87.7、肝臓は脂肪肝、フォアグラで、尿酸値も10と高く、いびきも大きくよく眠れなかった気がします。ストレスが強かったのか、常にねてる間に一度はトイレに行ってました。男性で睡眠中にトイレに行くのはかなりストレスフルな状態のようです。 このような状態だったのですが、今は、 体重74(1キロくらい戻った) 尿酸値はもう少しで普通、 夜中のトイレはゼロ、 イビキもかいてないのではないかとおもいます。 もちろん脂肪肝も完全に解消し、肝臓の値は正常に。 (ここでは体のことしか書いてませんが、体の前に心が楽になってます。) あと、意外なことに、左肘の乾癬がほぼほぼ治りました。完治と言っていいかな。再発することはあるんでしょうが、赤みも鱗屑もありません。 これ、皮膚科で治らないと言われたし、実際とても長く関わってて、中高の頃からのものなので三十年近い付き合いでした。なので気にしていませんでした。ストレスなどが悪化要因らしいので、きいたんだなあ、仏道。 どうして良くなったかのメカニズムはホント、ストレスがなくなったからだと思います。あとそんなに食べなくなって痩せたことも。酒も飲まないし。歩く瞑想をするので意外と体も動かしてるしね。 合宿 行くと精進料理だったりしますし。 私にとっては、本当に、健康になる道でした。多分これからもそうなってくでしょう。 ちなみに私のお師匠さんと思ってるヤサ長老ですが、お会いした人に実年齢を言うと確実に驚きます。そんなにお年でもないのにそこから十は若く見えます。ストレスが減れば、それだけでAgingが遅くなるんでしょうね。止まりはしないけど。 なので仏道は、アンチエイジングになりますね。 以上、漫談でした。

精励 スッタニパータ 第2章10 331-334

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頑張れっていうお経です。スッタニパータ 小なる章の10番です。 日本テーラワーダ仏教協会 のポスターがあって、幡ヶ谷のゴータミー精舎に貼られていたものといま僕の部屋に貼っているものがあるのですが、それぞれにこのお経の一部が書かれています。 僕はこういうふうに励まされるのが好きなんですね、力が湧いてくる。怠け者だから…。 「おきなさい 坐りなさい 寝ていてどうなるのか。 煩悩の矢に刺されて苦しんでいる患者たる(汝ら)には 安眠がないでしょう」 「怠りは汚れである。怠りにつられると汚れがたまる。怠らないことと智慧によって、自分に刺さった矢を引き抜け」 中村元訳  ブッダのことば ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 中村 元 岩波書店 1958-01 売り上げランキング : 3054 331. 起てよ、坐れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。 332. 起てよ、坐れ。平安を得るために、ひたすらに修行せよ。汝らが怠惰でありその[死王の」力に服したことを死王が知って、汝らを迷わしめることなかれ。 333. 神々も人間も、ものを欲しがり、執著にとらわれている。この執著を超えよ。わずかの時をも空しく過ごすことなかれ。時を空しく過ごした人は地獄に墜ちて悲しむからである。 334. 怠りは塵垢である。怠りに従って塵垢が積もる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。

勝利の経 スッタニパータ 第1章11 193-206

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勝利の経は、 スッタニパータ(ブッダのことば) の蛇の章11番です。 以下、2つのバージョンを載せます。最初は、日本テーラワーダ仏教協会のもの、次が中村元先制の訳のもの。 [新装版]ブッダの日常読誦経典[完全版 CD BOOK] [新装版]ブッダの日常読誦経典[完全版 CD BOOK] アルボムッレ・スマナサーラ サンガ 2015-09-26 売り上げランキング : 275114 日常読誦経典に掲載されている補足: 自分の身体をあまりにも可愛がると修行が後退することになります。 身体を気にすることは執着です。執着を捨てるための実践を成功させるには「ありのままの身体を観察する」のです。お釈迦様の時代では修行者たちがこの経典を日夜唱えて、「身体のことが気になって修行に励めない」というこころのわだかまりを解いたのです。 解脱を体験しようとする戦いで勝利を得るための経典です。 193. 歩く、立つ、座る、横たわる、 伸ばす、縮む。身体の動きはこれだけです。 194. (この身体は)骨と腱で組み立て、肉と皮膚で舗装されている。 皮膚に隠れているのでありのままには観られない。 195. 身体は腸に充ち、胃に充ち、また、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓があります。 196. (この身体には)鼻汁・唾液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。 197. またその9つの孔からは、常に不浄物が流れ出る。 目からは目やに、耳からは耳垢、 198. 鼻からは鼻汁が出る。 口からはあるときは(食べたものを)吐く。 またあるときは胆汁を、あるときは痰を吐く。 全身からは汗と垢とを排泄する。 199. またその頭蓋骨の空室は脳髄に充ちている。 しかるに愚か者は無明に誘われて、 身体を清らかなものだと思いなす。 200. また身体が死んで横たわるとき、膨れて、青黒くなり、 墓場に棄てられる。親族もこれを顧みない。 201. 犬や野狐や狼や虫類がこれを喰らい、 烏や鷲やその他の生き物がこれを啄む。 202. ブッダのことばを聞いて、智慧ある修行者は、 この(身体の)ことを完全に了解する。あるがままにのみ観る。 203. <かの死んだ身も、この生きた身のごとく

食べる瞑想のときに唱える文言

「食事の観察」 正覚者の説かれた真理を遵守し、正しく観察してこの食事をいただきます。 食事により心が汚れることを戒め、 体を痛めることにも注意し、 壊れてゆくこの肉体の修復のために、 量を計ってこの食事をいただきます。 一切の生命に対して慈しみの念をいだき、 釈尊の説かれた仏道を歩む目的を念頭に置いて、 一切の現象は無常であることを随念しつつ、 この食事を頂きます。 で、いたーだきーます、と食事を始めるとゆっくりと落ち着いて食事できまっす。

第4回 #tTMC のこと 2/23 平日瞑想会のお知らせ

テーラワーダ仏教の瞑想をされている皆様、こんにちは。 第4回の #tTMC についてお知らせです。今回は初の平日開催&今年初です。 #tTMC の基本的な情報については、 #tTMC : twitter Theravada Meditation Circle/Crossover 「Twitter テーラワーダ瞑想サークル/交差点」 のこと  をご参照ください。 それから、第3回のときにオリエンテーション的な文書も作っておきましたのでご確認下さい。内容は同じでいいかと思いますので。参加者によっては変わりますが、たたき台として。 慈悲の瞑想は「人々」を「生命」に置き換えて下さい。 https://drive.google.com/file/d/0B5tsofY2ftmeNC1Pa3kzTkRiM0E/view 前回のこと 第3回 はクリスマスにもかかわらず、7名の方が集まっていただき、マハーシ式を中心に、 ゴエンカ さんの方式で実践をしてみたりしました。これまでに比べると、より、修行チックな時間で、個人的には楽しかったです。45分ほど座る瞑想したりね。 もちろん指導できるお坊さんの集まりではないので、試供品程度の、ひとくちかじる程度の話ではあります。が、いろんなタイプの瞑想を軽く試してみる場にはなれるかと思います。そうすることで、どんな瞑想が向いているかを実地で確認できるかもしれません。またその実感をもとに、初心者指導に出向いたり、法話を聞きにいったり、といったステップを踏んでいくことも可能になるかと思います。そういう最初の一歩になればいいなーと思います。 何より、一人で進む道である仏道にも道連れはいるのだと思えるのは、なかなかいいと思います。仲間ですね。一人だけど仲間がいます。 1. 日時: 2017/2/23 木曜日 13時から17時 2. 場所: 京橋区民館 (東京都中央区京橋2-6-7) 最初から参加される方は、待ち合わせは現地の入り口当たりで、12時50分くらいを目安に。わからなかったら、080-5519-0886 までご連絡を。  ※何時に来ていただいてもOKです。 京橋区民館  http://chuo7kuminkan.com/about/kyobashi.html