ラベリング瞑想という言葉やラベリングにまつわる問題について

以下は、一介の在家修行者、道の途上にある人間の私見です。体系的に学んだわけでもなければ、出家と同様の戒律を守っているわけでもないので、戯言のようなものとしてお読みいただければと思います。

ラベリング瞑想とは

私がやってるスマナサーラ長老指導の瞑想は「マハーシ式」と呼ばれます。釈尊の瞑想を独自に体系化されたのがマハーシ・サヤドーだからです。

参照: http://www.horakuji.hello-net.info/dhyana/sikan/samatha_vipassana.htm

このマハーシ式の瞑想はヴィパッサナー瞑想の一種ですが、「ラベリング瞑想」と呼ぶ人も多いです。現象を確認するための道具として言葉を用いるからです。

瞑想の名付け方が、瞑想の本質ではない

ヴィパッサナー瞑想にはこの他に、プラユキ・ナラテボー師指導の「チャルーンサティ」などもあります。日本語にすると手動瞑想ですね。手を動かすからです。

プラユキ・ナラテボー師 瞑想実践

その他呼吸瞑想とか、歩行瞑想とか、いろんな瞑想手法があるわけですが、すべてわかりやすい特徴で名付けしてますね。この事自体はそんなに問題はありませんし、わかりやすいことで弁別するのは当たり前といえます。

ですが、これらの場合、名前になっている特徴そのものは、ヴィパッサナー瞑想でおこなう主眼となる実践ではありません。

チャルーンサティは、手を動かしますが「手を動かすこと」が瞑想なわけではないでしょう。歩く瞑想も「歩くこと」そのものが瞑想なのではありません。同じようにラベリング瞑想も、ラベリングすること自体が瞑想ではないのです。


「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語

ヴィパッサナー瞑想ではどのようなことをするのか

では何が「瞑想すること」にあたるのかといえば、その時やっていること、起きる現象に「気づく」ことです。これがヴィパッサナー瞑想で行うたった一つの営為です。したがって、あらゆるヴィパッサナー瞑想は根が同じだと思います。

座禅もその真髄は同じだと私は思います、が、気付きについて語ることはあまりないかな? 有名な禅師の言葉は、スマナサーラ長老やプラユキ師が言っていることとほぼ同じことに思えますし、釈尊へとつながっていると思いますので…。)

ラベリング瞑想から瞑想難民化するのは、間違ったやり方をしているからではないか

さて、ここから別の話になりますが、ラベリング瞑想、マハーシメソッドが上手くいかない人たちは、この「非本質的特徴」に引っかかるようです。もう少し言うと、「ラベリング瞑想」を経て「瞑想難民」化する人たちは、「やってはいけないやり方」をやってしまっているのではないかと推測します。もちろん統計もないのであくまで感覚的なものに過ぎません。

では、どんなやり方が間違いかといえば、
  • 言葉の意味を重視すること、
  • 言葉をマントラ、掛け声にすること、
  • 言葉を自分に言い聞かせること、
  • 感覚への気づきよりも先に言葉を使うこと
  • 起きている感情を否定すること (たとえば[妄想]という言葉にはマイナスイメージがあるため)
などかと思います。これは自分の実践や色んな人と話していて感じたことからです。

ラベルはあくまで、気づきが起こってから作動させるもの。もしくは、その人に気づきが育っていないならば、基本となる行為(歩くなら歩く、座っているならお腹の膨らみ縮み)をしてから、あるいはほぼ同時に、確認のために使うもの。かすかな気づきを大きくするために。(この、気づきが育ってない段階で、ラベリングを用いることで、実はかなり強制的に「気づきを育てる」作用があるのではないかと、私は考えています。ここが合う合わないの問題になるのかもしれません。)

なお、ラベリングではなく、実況中継という言い方もありますが、私は「実況中継」の方が合うと思います。スマナサーラ長老も法話などでラベリングという言葉は使わないように思います。やっていることとあまり合わないからです。現象にラベルを貼る行為が目的なわけではないからです。この点も、勘違いしやすいところかもしれませんね。なんとなくラベルを貼るのは、分類保管するようなイメージもありますしね。それはちょっと違います。

もう一つの間違いやすい点:フリースタイル・偏り

もう一つ、間違ったやり方として考えられるのは、いきなり座る瞑想をやりだすというようなことです。あるいは、座る瞑想しかしない、という偏ったやり方です。

参照: 冥想ができなくなってしまいました(1)


スマナサーラ長老の指導では、まず慈悲の瞑想手の上げ下げ歩く瞑想立つ瞑想など、体を動かすタイプ、心を落ち着ける瞑想と動中禅といえるようなものから入ります。

慈悲の瞑想は、荒れ狂っている心を落ち着かせるために有益です。抵抗を感じる人も多いのですが、やれるようになるだけで、心がかなり落ち着いてきます。ヴィパッサナー瞑想の準備段階といえます。

慈悲の瞑想について ヒントになることのそのリンク集

動きながらの瞑想では、体の感覚に気づきを向けます。それに慣れてきたら、座る瞑想や食べる瞑想などをします。(かなり様々なことをやります)

この訓練を経ずにいきなり座ってしまえば、感覚を感じ、それに気づけるようになる前に、そしてそれらの訓練である程度培われる[集中力]がない状態で、心に直面することになります。

座る瞑想では心がものすごく活動します。歩くときもそうですが、足に発生する感覚、重力、圧迫感は、座って目を閉じて感じようとするお腹の膨らみ縮みよりはるかに明確で存在感があります。つまり気づく力が育ってなくてもわかりやすいのです。

また、夢の世界に行って眠ってしまったら倒れてしまうわけですから、心の飛び方にも制限がかかります。実践されている方はわかりますが、座る瞑想をしていると時折、眠気でがくんと倒れそうになりますよね。歩く瞑想ではそこまで行きません。そこまで行ったら怪我します。

このような意味合いがあって指導されているガイドラインがあるのですが、これをすっ飛ばして自分のやりたいように、フリースタイルに、偏ったやり方をすると、確実におかしなことになっていきます。たとえば、気づきが育ってない段階でいきなり座る瞑想をして言葉を念じれば、マントラになりやすいでしょう。そして頭痛や心の不調が現れます。何かの暗示をかけるような行為になってしまいますから。

ですが、人は結構自分のやりたいように、あるいは「自分のためになるように」、「いいとこ取りをして」という意識で、結果、偏ったやり方や間違ったやり方をしてしまいます。でも、「自分のやりやすいように、つらくないように」と工夫してしまう、その事自体が[落とし穴]です。

(苦行をしろということではないのです。何を苦と感じるかについても見ていくということです。私が思うに[筋トレするくらい]の気合でやるのがちょうどよいかと思います。スマナサーラ長老には、どうして歩くのがきついのか、どうして呼吸するのがきついのか、どうして立っているのがきついのか、と言われてしまいますが・・・)

ヴィパッサナー瞑想は気づきの力によって現象の発生・感知から衝動の発生までの過程を意識化し、そのことで自我が様々な感覚や意味をまとめ上げるプロセスを相対化し、心をコントロールするための実践といえますが、なのに、いつの間にか自我の言うことばかりを聞いて、それを守ろうとして定めた範囲から出ないようにやってしまうので、どこにも進めなくなる、苦しみが増大する、という現象が発生するのではないかと思います。

ただ、その理由がその実践者のせいと言えるかというと、そこは言葉に対する自我のあり方、感性であったり、指導者との接点であったりと、いわゆる因縁としか解釈できないとも思います。誰かが悪いというわけではないように思います。多分、指導者との接点や相性が一番大きいのではないかと思っています。どの瞑想がよいかというより、よい指導者、よい瞑想実践者と出会えるかどうかの方が遥かに大きいのではないかと。

だって言われていること・伝えられていることが、そうとしか解釈できない、そうとしか思えない、ということはどうしても発生しますし、また、どうしてもある指導者の言うことは脳みそに入ってこなかったりすると思います。たとえばスマナサーラ長老は、一見言葉が強く、厳しく、激しい人に思えます。外国人なんで…。それは受け付けられない人も当然いるわけです。(実際お会いするとそうではないな~、すごく優しくて我のない人だなーと思いますが…。あと猫語話せるようですし、ゾンビ映画もお好きらしいですしね。)

なので、ラベリング瞑想でうまくいかない人は、別の手法や座禅をやったらいいと思いますし、ゴエンカさんのところやプラユキ師や小池龍之介師の講演会などに行かれるのもいいと思うのです。

もう一つは、いろんな指導者が現れることですね。様々なメソッドの。ただ、何でもありというよりは、出家者がいいのではないかなーと思います。一応、仏教の範囲のほうがよいのではないでしょうか。なぜかといえば、欲の世界、浮世と違うところが、実は重要だと思うので…。

それはともかく、各種のメソッドは気づきの力を上げ、解脱に至るための集中力も上げていくための、ガイドラインに過ぎません。これは言いすぎかもしれませんが、本来は、誰もがどのメソッドでもうまくやれるんじゃないかと思ってるのです。それよりは指導者かなーと。

あ、いろんなやり方をごたまぜにするのはどうかな?と思います。もちろん気づきができていればいいわけですが、やはり、落とし穴やら何やらを考慮してそれぞれの手法ができているわけですし、自分の好きなようにやるのがよい道のりかどうかはかなり見きわめないといけません。そう判断できている場合もあれば、自我のための逃避として、いろんなものに手を出す、というのもあると思うので。

(私自身は、マハーシ式のメソッド、スマナサーラ長老指導のやり方に絶対の確信を抱いていてそれしかやっていないのですが(色々楽になったので・・・)。なんか結論とは矛盾したこと言ってますねw)


ではなぜこれを書いたかというと、ラベリングがもしかしたら合う人がもしかしたら何かの条件の影響で、間違ったやり方をしているかもしれない、と思ったからですね。多分。

メソッド×指導者=瞑想への、自由への門


と思いますが、この数がもっと増えると良いですね。

以上、漫談でした。




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コメント

  1. 先日は、ウエーサーカ祭において、色々とご教示賜り有難うございます。瞑想時における頭痛問題は、わたしも陥ることがままあり、今回もまた体系的にお示し下さり、参考となります。因みに私の場合、頭痛に陥りやすいのは食事の瞑想時でした。目で手の動きを凝らしながらラベリングしていると、なにか非思考の世界に入り込めるような気がして、更に念を込めてしまい、そのせいか頭痛に陥っておりました。起きている現象にただ気付けるように注意したいと思います。以上、改めて御礼申し上げます。byホー
    リー

    返信削除
  2. ホーリーさま
    こんにちは!

    なるほどそういうことでしたかー。
    そうですね、凄くシンプルなのですが、ただただ気づくだけなのだと考えています。逆に言えばそれ以外は不要で。その気付きの補助として言葉を用いるだけです。
    シンプルすぎて、いろいろ考えてしまうんですよね。

    非思考の世界へのあこがれのようなものをお持ちのようですが、ヴィパッサナー瞑想によって探求しきれば、そのあたりのこともわかることもあるかもしれません。また、瞑想時にはきっと、そういったことは一度括弧に入れて行われるのがいいかもしれませんね。

    ではではお互い精進いたしましょう!

    返信削除
  3. じのん様
    どうもご無沙汰しております。
    ツイッター等にて変わらぬご先達に、感謝申し上げます。
    さて、先週日曜日、たまたま休暇を得ましたので、
    ウィセッタ長老の瞑想会に参加することが叶い、
    幸いにも個人面談にお呼びいただけました。
    そこで「食事の瞑想のときは、視線はどこにやったらよろしいものでしょうか。目を凝らしながら観察していると、頭が痛くなることがかつてありましたもので。」と質問申し上げますと、「視線というのは重要ではない。動作と言葉を完全に一致させること、それが大事。」とのお答えを賜り、まさに本ブログのご教示が正しかったことを想起しました。ついで「以前は、なにを見ながら食べていた?」とのお尋ねあり、「テレビを見ながらでした」なぞと答えますと、「ああ、ではテレビを見ながらでもいい。とにかく動作と言葉を一致させること、それに集中しなさい。まあ食事の瞑想は難しい。基本は歩く瞑想と座る瞑想をバランスよく。、で」と、ご指導くださいました。
    終始、笑みを絶やさないそのお姿は、あたかも慈母のごとし。
    他にも色々お教えいただきましたが、先ずは上記じのん様ご指導への追伸として匆々。
    しあさって、またまた日曜に公休叶い、今度は厳父スマ長老の瞑想会に伺えそうで、まったく有り難い限り。
    じのん様にも三宝のご加護がございますように。
                         ホーリー拝

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    返信
    1. ホーリーさま、ウィセッタ長老のご指導に行かれたのですね! いいですね~。
      食事の瞑想について、ご報告ありがとうございました。私はまだ直接お話したことがないのですが、タイミングあ合えば行ってたいです。
      厳父w 良いですねw厳父スマ長老
      ウィセッタ長老の方が年上でしたっけね。忘れてしまいましたが、おふたりとも若すぎて…。
      また、実践についてお教えいただけると大変助かります。
      ありがとうございます。
      ホーリー様がお幸せでありますように。

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