投稿

7月, 2017の投稿を表示しています

ラベリング瞑想で難民化してしまいそうな方のためのガイドライン(私案)

ラベリング瞑想という言葉やラベリングにまつわる問題について ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について(その1)   ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について(その2)   と書いてわかったことがあるのだが、その前に「動機」を書いておこう。 1. 動機 一連のエントリーの動機は、  「ラベリング・実況中継する瞑想が合わない、あるいは瞑想難民になってしまった方々の、ラベリングについての理解、認識が私のものと異なっている」 と思われたことが挙げられる。同様にプラユキ先生がラベリングで陥る問題として挙げるものも、まさにラベリングを用いる瞑想をやっている人たちが「 やっていないこと 」と思われる。 これが事実なら、 うまく行ってる人、うまく行ってない人は実は同じラインを示している 。上手くいかない人がやっていること、うまく行ってる人がやってないこと、これらはほぼ同一の可能性がある。したがってここを明らかにすれば、ラベリング系瞑想の注意点が明らかになり、瞑想難民化を防ぐ一助になると私は考えた。 またうまく行ってない方々が語るラベリング瞑想の姿はちょっと違う感じがすることが多く、それがやり方だという理解が一般的になると、それもまた事実に合わないと思った。 以上の二点が動機となり、明らかにすべき、整理すべきことと見えた。 2. ガイドラインの明確化 あらゆる瞑想法にはガイドラインがある。 例えば座禅では、背をぐにゃぐにゃに曲げ、体を揺らしまくり、おしゃべりし、手を動かし、といったような指導は決してなされない。その逆がガイドラインだ。 プラユキ先生が手動瞑想を指導されるときは、ぐぐっと手のひらに集中して、それだけになるように、手しかなくなるように、その動く軌跡のすべてに気づくように、とは指導されない。その逆といえる。 その他、アナパナ系では、額に気を集めて、とは指導されない。寝ろとも声を出すようにともされないだろう。 このようにすべての瞑想技法にはガイドラインがある。当然スマナサーラ長老のものにもだ。そこでここでは、私が理解しているスマナサーラ長老の瞑想指導を、コンパクトにし、明確化してみる。 ※明確化には功罪があるが、それは後に。 ※

ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について(その2)

イメージ
ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について その1 の続きです。 チャルーン・サティの手動瞑想との類似点 マハシ式では歩く瞑想、手の上げ下げ瞑想など、型を定めることもできるが、はっきり言えばすべての動作、行為を瞑想化することができる。この時行うのは、動作への気づき、それに合わせてラベリングすること。それ以上でもそれ以下でもない。が、この行為、動きに気づくことの結果として、今渦巻く感情や思考から離れる。 これはプラユキ先生が指導されているチャルーン・サティの手動瞑想とほぼ同じような結果を導き出すし、そのプロセスも似ている。 https://www.youtube.com/watch?v=gcBeC6Qdg9k 異なる点は、歩く瞑想をするならば、下半身の動かしている方だけが全てになるくらい集中し、そこに生じる感覚に気づくようにというように指導をされること。つまり 集中力についての取扱が異なる 。 チャルーン・サティでは感情が浮かんだら、パッと手に戻る、その位置に戻るというように自由な浮遊があって、それでいてある特定の時空(手)にアンカリングする。その時、多分初期は、ぐっと集中させない。軽く振れるくらいの気持ちで、ふわっと気づくように、という感じだと思う。 が、マハシ式の動中禅ではそもそもその領域全体に心を係留するように、集中力によって気づきが常にその辺に漂うようにという指導になる。ただ、座るときは、お腹の膨らみ・縮をベースラインに設定するし、心がさまようことはそれほど妨げないけど。 https://twitter.com/i/moments/818739025028616192 で、私個人で言えば、そんなうまくは行かない。心は常に泳ぐし、さまよう。妄想の海を泳いでいる。 けど、明言されてないかもしれないが、くじける必要はまったくない。(色んな所で、スマナサーラ長老ははっきりいっている気がするけど…) 今失敗したならまたやればいい。 「 何万回でも繰り返せばいい 」 そういう前提がヴィパッサナー瞑想にはある。 というか、ものすごい回数失敗するのは前提。だって誰もほとんどやったことのない心の使い方だから。超難しいから。慣れてないから。それが大前提。 だから口ぶりは厳しいように見えるが(スマナサーラ長

ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について(その1)

以下は、あくまで、途上の人間が、途上の人間に浮かんだ見解を書いたものです。見解なんてくだらないものです、と予めいっておきます。 ですから、参考程度、落書き程度に思って読んでいただければ幸いです。 *かなり長くなったので分割しました。 その2 に続きますが、結構主題は変わっているので問題ないかも? --- 以前、ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想についてかいた。 ラベリング瞑想という言葉やラベリングにまつわる問題について この瞑想法は、「マハーシ・サヤドー」がまとめ上げたものなので、マハシ式、 マハーシメソッド、などと呼べるし、twitterでは言葉を短くするために(140字だから)、マ式ヴィなどと言っていることもある。 イケメン マハシ長老 のお写真 https://twitter.com/ERcUp5PO2AGVtWh/status/886993034902085632 これについて補足をしてみたく思った。 ラベルとは何か、および、ラベルを用いる瞑想は「何ではないか」 について。 ラベリング瞑想では「価値判断」をしない マハーシ式に限ったことではなく、あらゆるヴィパッサナー瞑想、座禅なども、価値判断は行わない。 瞑想中は一切の価値を手放す ものであるから。 で、マハシ式の座る瞑想では心に浮かんだことは例外なく【雑念】【妄想】のどちらかのラベルを貼る。 起きたものに対して、何であるか、どうしてであるかの判断は行わない 。一切の価値判断を捨てる。捨てる=手放すということでもあり、とにかく、離れることになる。 浮かんできたもの、起こってきたものが何であるかをいちいち判断していたらひどく遅くなるし、またその判断の過程で【思考】が割り込み、思考の強化に陥ってしまいかねない。 だから「妄想」「雑念」というラベルを貼るのは物置に放っておくという意味合いになる。 「これらが浮かぶ自分はだめなんだ」 「これらを考える自分は妄想ばかりしていてダメなんだ」 と自己否定を行うためではない。その感情を強化するためでもないし、その感情に耽溺するためでもない。 お片付けのラベル貼り 。そしてちょっと乱暴だが、心に浮かんだすべてを片付ける。オッケーという言葉は貼らないが、じゃあね!ってバイバイする。バイバイしやすいようにす