ラベリング瞑想で難民化してしまいそうな方のためのガイドライン(私案)
と書いてわかったことがあるのだが、その前に「動機」を書いておこう。
1. 動機
一連のエントリーの動機は、
「ラベリング・実況中継する瞑想が合わない、あるいは瞑想難民になってしまった方々の、ラベリングについての理解、認識が私のものと異なっている」
と思われたことが挙げられる。同様にプラユキ先生がラベリングで陥る問題として挙げるものも、まさにラベリングを用いる瞑想をやっている人たちが「やっていないこと」と思われる。
これが事実なら、うまく行ってる人、うまく行ってない人は実は同じラインを示している。上手くいかない人がやっていること、うまく行ってる人がやってないこと、これらはほぼ同一の可能性がある。したがってここを明らかにすれば、ラベリング系瞑想の注意点が明らかになり、瞑想難民化を防ぐ一助になると私は考えた。
またうまく行ってない方々が語るラベリング瞑想の姿はちょっと違う感じがすることが多く、それがやり方だという理解が一般的になると、それもまた事実に合わないと思った。
以上の二点が動機となり、明らかにすべき、整理すべきことと見えた。
2. ガイドラインの明確化
あらゆる瞑想法にはガイドラインがある。
例えば座禅では、背をぐにゃぐにゃに曲げ、体を揺らしまくり、おしゃべりし、手を動かし、といったような指導は決してなされない。その逆がガイドラインだ。
プラユキ先生が手動瞑想を指導されるときは、ぐぐっと手のひらに集中して、それだけになるように、手しかなくなるように、その動く軌跡のすべてに気づくように、とは指導されない。その逆といえる。
その他、アナパナ系では、額に気を集めて、とは指導されない。寝ろとも声を出すようにともされないだろう。
このようにすべての瞑想技法にはガイドラインがある。当然スマナサーラ長老のものにもだ。そこでここでは、私が理解しているスマナサーラ長老の瞑想指導を、コンパクトにし、明確化してみる。
※明確化には功罪があるが、それは後に。
※※今までマハシ式とよんできたが、以下はスマナサーラ長老の瞑想と呼ぶ。かなりのカスタマイズが施されてるため。スマ式でも良いかも…。
3. スマナサーラ長老の瞑想のガイドライン
※以下、具体的な瞑想法には触れない。興味のある方は以下の本をご覧ください。
A. コース料理である: 順序と段階
スマ式では2つの系統が同時進行する。
- サマタ瞑想かつ見解の漢方薬としての慈悲の瞑想
- 実況中継・ラベリングするヴィパッサナー瞑想
これらは同時進行ではあるが、基本は慈悲の瞑想を先に行い、心を落ち着かせてから進む。
が、慈悲の瞑想にはゲロを吐きそうなほど、やる前に抵抗を覚える方が少なくない。ゲロは吐かなくても、考えるだけでいやだ!と否定的な気持ちや思考、反応が発生するケースがすごく多い。その場合、やれそうなとこだけをピックアップしてやるか、それも無理ならスキップする。
※やれるとその否定的なものを作り出す塊も溶けるんだけど、ムリなものはムリですしね・・・。
慈悲の瞑想のスキップに関わらず、ヴィパッサナー瞑想は以下の順序で行う。また補助的に日常の様々な場面で人助けなどの慈悲の実践をしてみる。
- 手の上げ下げ瞑想 数分
- 歩く瞑想 2時間程度
- 立つ瞑想 10分程度
- 座る瞑想 30分以上
1は一日にニ、三回でもいい。心もそれほど使わない。が、やってみると心がシーンとするのを感じられると思う。それはそのまま落ち着きでもある。その感覚を忘れずに、思い出したら繰り返しやってみる。寝る前、起きたとき、仕事に行く前、などなど。
続いて2を行う。2は1セッション2時間程度を目標にやってみる。無理なら1時間、無理なら30分。30分くらいはやれるようにしてみる。無理なら15分でも。落ち着けば落ち着くほど長くやれるようになる。
おすすめとしては、この順序はいきなり進まないこと。次の段階に行くには心の落ち着きを見ながらになる。ただそもそもある程度の落ち着きがあってやれると思うならば同時でもいいし、順序がある程度変わってもそんなに問題はないと思う。1,2,3まではそのように、好みで変えてもさほど問題は起きない。
だが、4の座る瞑想から始めるのはお勧めしない。心を激しく使うので、感情の波にさらわれ、間違ったやり方をしかねない。できれば、慈悲の瞑想と、1、2、3のどれをやってもある程度抵抗なく、心の落ち着きを感じられるようになってからやってみてほしい。心のざわつきがどうなるかは自分でわかると思う。
B. ラベリングについて: 原則と落とし穴
これは一連のエントリーでかなり書きまくったので、原則だけ改めて示しておく。また1、2、3は行為そのものにラベリングするのでわかりやすいから、省く。したがって以下は4の座る瞑想でのラベリングで気をつけてほしいポイントになる。やると心が辛くなりかねない。
- 感情の分析
- 思考内容の分析
- 言葉を言い聞かせること
- 3とかぶるが、心の現象より先に言葉を使い、出てきた現象を抑圧すること(あるいは思考・感情・妄想を抑圧するためにラベルを言い聞かせること)
- 分析してぴったりくる言葉を探すこと
- 言葉の意味を重視すること
- 自分を責めること
これらの逆のやり方を推奨したい。
大雑把に、
適当に、
分析せず、
言い聞かせず、
ざっくりで。
ピッタリ来なくても気にせずやる。
間違っても全く問題ない。
特に7は気をつけよう。怒りを自己に向ける行為になる。うまく行かなかろうが、ひどいことばかりを考えようが、妄想にまみれていようが、気にすることはない。それは現在の自身の一面というだけだから。淡々と続ける。怒り憎しみ、性欲、物欲、様々なものにまみれていてもよい。気にしない。
※たとえば、歩くときは、左右を間違っても気にしない。座るときに心に起きるものは、妄想で全部片付けると何も気にせず済むので楽ちん。妄想と言っておけば間違いじゃないし。今ココのことではないのだから・・・。が、あからさまにわかっているなら、分析せずに理解できるなら、怒り、悲しみ、喜び、などなどピッタリ来る言葉を使っても大丈夫。わからないときは、考えている、感じている、でもいい。スピード感が重要かも。
C. 各モードに共通した注意点:スマ式瞑想実践の原則
- スローモーション
- 感覚を感じる
- 実況中継(ラベリングのこと、実況中継の方が、実践者としてはフィットする感じはある)
- 背筋を伸ばす
- ストップモーション(「死体を演じる」)
D. 瞑想時の心構え: 私が思っているもの
以下の心構えがあるとやりやすいと思う。
-
瞑想は苦行ではない。
苦しい中で頑張ってしまうと辛くなる。我慢は苦行であり、自己への怒りに似た行為、責ににた行為だ。そういうことはしない。 -
といって、快楽を与えてくれる逃げ場でもない。
気持ちいいだけではない。自我に親和的な行為ばかりでもない。瞑想そのものは大変なこともある。無理に我慢する必要はないが、筋トレ程度の意気込みは必要だ。修行ではあるので。楽器やスポーツの特訓だと思ってほしい。やりすぎては心も体も壊す、やらないなら進歩しない。 - 一番好きな場所にいるように、リラックスして楽しく。
-
充実できるよう、一生懸命、怠けずにやる。
怠けなければ怠けないほど楽になってきます。 - ただただ気づくことだけが、この実践での基本行為であること何度も思い起こす。
- 目的を持たない。集中するぞ~、とか、心を落ち着けるぞーとか結果を考えない。考えるなら気づくことだけを思い起こすといいかもです。
- 求めれば苦しくなる。まずは心身の健康法程度、太極拳程度の気持ちでもよい。
- 世界がいきなり変わったりしないので、そういう期待はしない。
これやると苦しくなります。 - でもやればやっただけ確実に変わってくから、自分の欲望は気にしない。
- 気づきを忘れて何万回思考・妄想に陥ったり、心が飛んだりしても、日常で苦しみが減っているなら、進んでるので、安心して進もう。
- 間違う、失敗するのが自分であり、だめな思考、感情が浮かぶのが、自分である。人間はそんなものと思おう。たとえば私はドロヘドロのように汚い妄想がすぐ浮かびますよ。
- が、それを否定する必要は、これっぽっちもない。それは単に現実なのだから。現実は否定してもしなくても変わらない。感情をつくっても何も変わらない。苦しみが発生するだけ。
- 日々の苦しみが楽になっていってるなら、心が落ち着いて、明るくなっていっているなら、瞑想に対してどんな疑問が出てきても、合わないと思っても、問題ない。淡々と続けよう。
- 繰り返しになるが、うまく行ってるかどうかの基準は、楽になっていってるかどうか、苦しさが軽くなってるかどうかだけ。(すると周りの人に変わったと言われるようになります。これも指標になりますが、拘泥しない)
- 「瞑想がきつい」「なんかうまくできない」と思うようになったらだいたいうまくいっている。瞑想がうまくできない!そういうときこそうまくいっている。大体、自分が感じる、自分が考えることと逆の状態が進行している。なぜなら、自我からの解放につながる実践なので、ある程度進むと自我が思うのとは反対のことが起きていることが多いのです。
- ただし、日常生活でも鬱とか苦しみが強くなってってたらうまく行ってない。
これは危険信号なので、日々、苦しみが募っているなら、瞑想難民化していると見て、一旦やめよう。この場合は、仲間やお師匠さんに相談です。 - やるぞ~!ってときだけでなく。
日常生活の様々な場面でふっとやってみるとすごく楽になるのでお試しください。
以上、4つの視点からガイドラインを明確化してみた。
すべて、私なりのものでしかなく、長老に確認を取ったわけでもないから、間違ってる可能性もあり、個々人には合わない可能性もある。進んでいけば、その人だけの瞑想になっていくので、長くやっている人には、合わないだろう。そのあたりを念頭に置きつつ、参考にしていただければ幸いです。
終わりに
最後に、スマ式のあからさまな欠点・短所を述べて終わりにする。
それは、一言、「難しい・複雑な」ことだ。 なんか細かいよね。面倒とも言える。慣れちゃえば問題ないが、立つ瞑想のステップや座る瞑想のステップなんか結構めんどくさい。これに比べるとチャルーン・サティはすごくシンプル。スマ式は複雑すぎます。が、それは理由のあることだし、この複雑さは、なんというか防具を身につけるみたいな感じです。やっている人はわかると思うけど。
ではでは。
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