慈悲の瞑想についての一考察: 慈悲、欺瞞、偽善、行動という視点から

慈悲の瞑想を巡って発生する様々な現象について、私なりにまとめてみたい。

慈悲の瞑想の文言についてはこちら、実践を巡ってはこちらをご参照ください。

0. 慈悲の瞑想とは、その構造は

私が実践している慈悲の瞑想は、スマナサーラ長老がまとめたものである。それを構造的に考えると、対象は、

  1. 私の親しい生命
  2. 生きとし生けるもの
  3. 私の嫌いな生命
  4. 私を嫌っている生命

の五種であり、この五種にそれぞれ四種の文言を念じ、感情・見解を作り出す。4種の文言は、

  1. 幸せでありますように
  2. 悩み苦しみがなくなりますように
  3. 願い事が叶えられますように
  4. 覚りの光が現れますように

である。だから細かく言えば20種の瞑想になる。

*フルバージョンはまた違うのだが。こちらはより仏教的な見解に向けた調整という側面が強いと言える。

1. 慈悲の瞑想に対する反発・反応のまとめ

この慈悲の瞑想だが、「やったことがない人が読んでも抵抗感を覚える」というのが特徴であり、人に紹介すると発生しやすいパターンが3つある。

1-a. 慈悲の瞑想は欺瞞ではないか

そのうちの一つが「欺瞞なのではないか?」というもの。

欺瞞とは欺くこと、騙すこと。この文脈で言えば、自分自身の気持ちへの嘘であり、自己の真実の抑圧、騙しとなる。


この気持ちは実は極めて自然だ。「私」に関する4種以外はそれほど自然に発生するものでもないからだ。寛大な人は「私の親しい生命」への4種も持ち合わせているかもしれないが、「私」に対してすら、否定的な気持ちを持っている人も多い。

この意味で「欺瞞ではないか」と感じること自体、実は真正な感想である。自己の今の状態に対するストレートな、正直な反応と言える。

1-b. 慈悲の瞑想は偽善ではないか

この反応もよくある。言葉だけで、頭の中だけで、行動が伴わないじゃないかというものだ。「言葉で念じて上辺を取り繕うよりは行動せよ」という考え方でもある。

これも自然だろう。いいことを言う人間より、寄付なりボランティアなり、実際に人助けしている方が良いに決まっている。また宗教的なものの考え方、救済という考え方からしても念じるよりは行動と考えるのはごく普通だ。

1-c. 怖い、気持ち悪い、具合悪くなりそう、という不安・恐怖感

これもまたごく自然な反応だ。慈悲の瞑想は【発酵食品】だ。チーズやキムチのように、やる前から臭みが漂う。吐きそうという感覚を感じる。この感じ自体は嘘でも何でもない。


2. 慈悲の瞑想への反応に関する解析・分析

上記のように、慈悲の瞑想には拒否の思考、否定の思考が向けられることがある。以下ではそれぞれについて、私の考えを書こう。

2-a. 慈悲の瞑想は「欺瞞ではない」

まず何かを欺瞞だと判断するとき、論理的には「真正な何かがある」、「真実がある」という前提がある。真実がなければ、嘘もない

で、ちょっと乱暴だが、仏教的には「真実の私」というものはない。無我だから。だから論理的に欺瞞になりえない。だからこそ、自己の心について仏教の見方をする以上は、欺瞞という事自体が言えなくなる。移り変わるという意味での無常を考えても同じだ。変わり得るものなのだから。



もちろん、人間は嘘をつける。他者を騙すことも自己を騙すことも可能だ。だが、慈悲の瞑想はそれには当たらない。 なぜなら怒りや憎しみ、その他の強い感情を「持ってない」とするわけではないから。「私は怒らない人間である」と念じるわけではないから。

* あとに述べるが、むしろこの逆で、自分が様々なネガティブな感情を持っていることがよりよく分かる。

つまり、「私は怒っているのに慈悲の瞑想をするのは嘘ではないか」と感じるだろうが、その心の事実を否定して、瞑想するのでもないのだ。怒りや恨みがある瞬間に存在したとしても、それはそれ、慈悲の瞑想をするその時点で慈悲喜捨の念を持つのは、決して自分への嘘ではない

私たちの感情は瞬間瞬間揺れ動いている。どのような感情もリニアに起きている。怒った次の瞬間に、飯のことを考えていることだってよくある。だから怒りの次の瞬間、 慈しみがあっても問題ないし、それは簡単に実現するのだ。が、普段から怒りやその他の暗い感情に染まっていればいるほど、わかりにくいかもしれない。人の色は変わりうるのだが。

また、マルチタスクという考えを持ってるとさらにわかりにくいかもしれない。が、人の心はマルチタスクではない。意識からすると、あまりにも速すぎるのでそう感じているだけだ。

論理的・仏教的にはこうなるが、ちょっと違う視点でも見てみよう。


欺瞞、慈悲、の感情アセット

まず、ある時点の「私」はなんらかの感情、思考の「海」に漂っていると表現できる。表現の仕方は好みの問題だが、その海の成分を変えるのが慈悲の瞑想の仕事といえる。だが、ここではあえて別の例で考えよう。財産の話である。

人の財産構成は様々である。現金しかない人が多いかもしれないが、タンス預金が全部という人はそう多くなくて、普通預金が大半だったり、一部は定期預金にしていたり、suicaに入っていたり、nanacoに入っていたり、銀行も三井住友もあれば楽天もあれば、なんとか信組に預けている場合もある。株で大半を持っている人もいるし、誰かへの貸付や投資信託、土地、宝石類、車、腕時計などなど、様々な形で財産を所有している。動産は二束三文かもしれないが、価値があればそれはすべて財産といえる。テレビとかPC、スマホも交換できる。

私たちの感情は、財産構成のように、様々な割合になっている。だが、そのどれか一つが「本当のお金」なのではない。どれも支払いに用いられる。不動産も売ってしまえば現金にできる。「現金」でさえ、本当のお金ではない。変に聞こえるかもしれないが、「お金」は交換できる価値の単位であって、現在取っている形は問題ではない。円でなくてドルでも良い、元でもウォンでもバーツでもいいのだから。ただ、日本で使うには円がメインになるだけだ。その他、ビットコインだってイーサリアムだって使える時代だし、飢餓の激しい地域では紙幣より水や食料のほうが遥かに価値が高いこともあるだろう。であれば、財産は交換価値があるかどうかだけの問題だ。変わらぬ実体、真実の財産というものは存在しない。

さて、なぜこんな例を話したかというと、これが我々の感情を考えるのに、そして慈悲の瞑想の働きを考えるのに、なかなかわかりやすいからだ。

この例を使えば、慈悲の瞑想は普段、普通の人があまり持っていない財産の構成要素も導入しましょうという実践と言えるからだ。給料をビットコインやイーサリアムでもらうと考えてみてもいい。普通の人はビットコインで所有していないのと同じように、慈悲の瞑想が表す形では、感情を所持していない。だから、極めて変わった感情を、自分の一部にしようとすることでもある。

*所持という考えには問題があるがあえておいておく。

このような意味で「今の私の在り方にはそぐわない」という反応は当たり前である。「私のスタンス」としては「ニコニコ現金払いだ!」という人に、ビットコインに換金しませんか?といっても抵抗されるだけだ。

そしてこの感情、スタイルからの反応が【欺瞞ではないか】という思考になるのではないかと考えている。当然、私も当初そのように思っていた。

つまり慈悲の瞑想は、感情のアセット、その配分、その構成を変える実践になる。怒り、憎しみ、嫉妬、羨望、そのような我々の支配的感情構成に、一滴、違うものを入れるものだといえる。

*財産の例で考えると、同時に持っているというように思ってしまいやすく、そこは落とし穴である。先に注釈したように、心の基本はリニアだ。シングルタスクである。ただ、それが圧倒的に速いだけだ。ので、財産の例はあくまで例にすぎない。

*この例で使った、ビットコインを慈悲とみなして、それで交換しやすいのが慈悲の行動だと思えば、ちょっと面白い…。

2-b. 慈悲の瞑想は偽善ではない

 「慈悲の瞑想は言葉だけで行動が伴わないのでは」という反応もよくある。これは一言、「すべての行為は心から発する」という考えが正しければ、論理的には終わる。

またここには暗に「言葉だけで行為はしない」という前提があるが、それは決めつけである。慈悲の瞑想の実践者が行為せず、行動を起こさず、ただ唱えているだけという決めつけになりうる。

私事を例に取るのはあまり良くないが、それしかデータが無いので出すと、私自身、慈悲の瞑想の使用前使用後で大きく変わったことがいくつもある。

たとえば私は40歳の後半から仏道の実践を始め、慈悲の瞑想を開始したが、その後、赤の他人から感謝された回数が、それ以前の40年をゆうに上回っている。 それも開始後数ヶ月でそうなった。

なぜかといえば、具体的には
  • 電車で席を譲る、
  • ホームレスの人々に少額を渡す、
  • 迷っている人の道案内をする、
  • 自転車のチェーンが外れているのを直してあげる、
  • 数々の人道的団体に寄付をする、
  • 献血をする、
  • 自分よりも家族や友人を優先して優しくする、
などなど、それ以前の私では一切考えられなかった実践をはじめたからだ。

良くも悪くも普通の人だった私だが、心に慈悲の感情をインストールし始めたことで、自動的にそれまでの自分では信じられないような行為が生まれた。瞑想と実践は表裏一体になると言えよう。

また論理的に考えてどうだろうか、優しい心を持ってないのに優しい行為が行えるだろうか? そういう気持ちがないなら、そういう行動もできないのではないか。これは同意しやすいのではないか。

それにもし優しい行為をすれば、そのフィードバックで優しい心も強くなる。だから私は、慈悲の瞑想と行為は対立し、矛盾するものではなく、互いに支え合うものだと考える。どちらかが強まれば、もう一つも強まる。瞑想が行為を排除しはしない。

ちょっと違った視点で言えば、慈悲の行為は助けられる相手、対応すべき問題が目の前になければ発動しにくい。具体的には、家の中にたった一人でいるとき、家事も仕事も終えてしまったら、行動としての慈悲の実践は難しい。一人海辺に座っていたらあんまり慈悲の行動をできる対象もいない。鳶に飯をやるくらいのものだ(これも慈悲の行動だが)。

だが、そんなときでも慈悲の瞑想なら可能だ。そしてそれを行うことで、更に工夫やら思いやりがまして、より良い行動も思いつく。このように補完しあうとも言える。

慈悲の瞑想と実践は、相性の極めて良いセットでこそあれ、矛盾し、対立し合うものではないと私は考える。


2-c.「怖い、気持ち悪い、具合悪くなりそう、という不安・恐怖感」はやってみると消える

最後になるが、1-c は上の2つと違ってより生々しく、実はこれが上記の考えを生む理由ではないかと考えている。

慈悲の瞑想は、ここまで読んだ人はわかると思うが、「やる前から」どんなものであるかという推測が可能だ。目に飛び込めば、人は意味を推測してしまうからだ。

思考はとても速く、意識的に拒否しようとしても「ピンクの象」という言葉を聞けば、人はピンク色の象について想像してしまう。想像しないこと、できましたか? できませんよね。これは字が読めて意味が分かる人であれば、100%当てはまる。ピンク色の象は頭のなかにすでに入ってしまい、すでに想像されてしまっている。

これと同じように、慈悲の瞑想の文言に目を通せば、必ずそれに関連した感情と思考が起動されている。

  1. 私の親しい生命
  2. 生きとし生けるもの
  3. 私の嫌いな生命
  4. 私を嫌っている生命



  1. 幸せでありますように
  2. 悩み苦しみがなくなりますように
  3. 願い事が叶えられますように
  4. 覚りの光が現れますように

という文言、その意味はすでに、唱えてない・念じてない人にもわかっている。だから臭い食べ物のように臭う。つまりその意味や感情は、今持っている意味や感情と連鎖反応している。だからこそ嫌だ、気持ち悪い、怖いという反応が発生する。今の感情アセットがこの慈悲の感情や意味と化学反応を起こしている。

食べ物つながりで言うと、慈悲の瞑想は非常に健康にいい、完全食品と言っていい代物だ。臭いんだけど。キムチとかチーズとかみたいに。だから一歩進んでやってみてと言いたい。今、ちょろっと始まっただけの化学反応では足りない。一気にインストールすれば、実はものすごい変革が始まりうる。トイレ行って吐いてきてという感じだ。でも、無理な人はやらなくていい。

ま、なんとなく吐き気を催すだろうし、そこから恐怖感、不安感が出てくる人もいるだろう。けれども、それも吐くってことと似てて、一度吐けばすっきり気持ちよくなる。胸につかえている感情を吐き出すような、そんな作用がこの瞑想で起きる。

別の言葉で言えば、ソナーのようにも働く。親しい生命、嫌いな生命、嫌われている生命、これらを念じていると、考えもしなかった人の顔が浮かんだりする。十年以上思いだしもしなかった人への感情やそのシーンとかが、ブワッと解凍されて出てくる。自分が何を考え、何を心の底にしまったかがわかる。

だからまさに、アクティブソナーとして働く。スキャンすると言ってもいい。ボディスキャンというヴィパッサナー瞑想の技法があるが、感情のスキャンに近い。エモーションスキャンといっていいかも。 フィーリングスキャンとか。

そのように我々の心の奥底にしまいこんだ見たくもない感情の在り方に光を当て、それを解放してくれる。そして回復の道のりが始まる。自分自身がその感情から解き放たれる。その執着がその瞬間、終わる。

存在を認知すれば、それだけで物事が変わっていくのが人の心であるから。

つまり様々な心理療法に近い。感情の存在を認知し、受容するのだから。価値判断はしなくていいが、ぱっと浮かび上がって、知ることができる。

いずれにしても、慈悲の瞑想は、常に、その時時の我々の感情アセットを明確にし、そのうえで、違う感情を入れようとする実践と言えよう。



3. まとめ

以上、書いておこうと思っていたことは書いた。これはあくまで一般論であって、個々人の問題については踏み込むつもりはない。

書かなかったことは、どこに抵抗を感じるかは千差万別だということだ。20種しか無いので千というと大げさだが、嫌いな生命、嫌われている生命に対して念じようと思うだけで具合悪くなる人もいれば、「私」に念じるのが苦手な人、親しい生命が苦手な人もいる。その人その人で、棒読みになってしまう箇所もあるし、心がこもる場所がどんどん変わっていくこともある。

こう考えると、繰り返しになるが、極めて心理療法的な側面も強いのがこの瞑想だ。(ヴィパッサナー瞑想も同様に。)

現代の心理療法との違いはたった一人でやれること、中身には「道徳」「倫理」が全面に出ていることがあげられる。つまり自己の感情の構成・アセットにダイレクトに影響しつつ、それらを仏教の倫理・道徳・理論の側面、つまり慈悲の側面から再構成しようというのが、 慈悲の瞑想になると言えよう。

この是非は、私は圧倒的に是であるが、ここで論じるつもりはない。(重要なところだけど・・・)


以上、 「慈悲の感情をめぐる拒絶の思考」について述べた。
慈悲の瞑想を実践されている方、あるいは興味があるができない方に参考になれば幸いである。

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